ホモ・(サピエンス:賢き者)に次ぐ

この地球上でもっとも賢い生き物は何だろう。

おそらく、読者のだれもが、自分自身ーーホモ・サピエンスであると思うだろう。

我々は約10万年前に誕生し、地球上に存在したあまたの動植物を調教し、あるいは生活圏を隅に追いやり、あるいは存在ごと歴史の奥へと消した。

だが、我々の思う「賢い」とは、いったい何だろう。

脳の大きさだろうか。確かに脳の大きさならば、現存する生き物のうち、人間は最も大きな容量の脳を持つ。生き物の二位以下(確かイルカだったか)に対して、人間の持つ脳の大きさは圧倒的である。

だが、その前提には疑問が残る。なぜなら、我々はネアンデルタール人をすでに滅ぼしている。ネアンデルタール人の脳は、ホモ・サピエンスと比べて100mlほど大きいとされている。にもかかわらず、今の現世を牛耳っているのは(少なくともそう思い込んでいるのは)、我々ホモ・サピエンスである。

我々はよく頭のいい人のことを「知性を持つ人」「知性的な人」と称する。だが、前置きにも記載した通り、知性、すなわち賢さというのはあやふやな表現だ。どういった存在が知性を持っているのか、どういったものがより知性的か、我々は示すことができないでいる。

そんな問いかけに真正面からぶつかった本が、今回紹介する 植物は〈知性〉をもっている だ。著者はステファノ・マンクーゾとアレッサンドラ・ヴィオラ。

この本は、我々が思っていた〈知性〉というものが何を指しているのか、そしてそれらを比べていった結果、人間はどれほどの知性をもちうるのかを示してくれている。

まず、知覚について考える。知性には知覚の存在が不可欠だからだ。

植物には目がない。耳もない。肌もなければ、鼻もないし、舌も存在しない。人間に存在する五感というものを、持ち合わせていないように思える。

だが、それは人間の都合だ。引いていえば、脊椎動物の都合だ。五感とは、物体の事象として落とし込むと以下の四つに置き換わる。

・光(視覚)

・音(波)(聴覚)

・化学反応(嗅覚、味覚)

・物理的接触(触覚)

このように大別してみると、植物はそれらを人間とは違う器官を使って取得し、対応をすることができるとわかる。

光合成をする葉っぱには光を感じ取る能力があるし、音、もしくは振動を感知して反応する器官もある。必要な栄養素、つまり化学物質を土の中で感じ取ってその方向に根を伸ばすこともしている。

知性とは考える力のことだと、だれしも思う。読者諸兄であれば、いったいどの植物なり動物が芸術を理解できるだろうと考えるだろう。どの生物が、美しさを理解するできるだろうと考えるだろう。確かに、主に芸術関連の事象として知性を求めると、そういった結論に至るのもわかる。

しかしそれは、あまりにも人間の目線で考えすぎていないだろうか。目に見えて動きがないからと言って、植物を石や土、水といった無機物(化学的に意味合いは違うが)に準ずるものとして扱ってきた過去の人間と同じように考えていないだろうか。

宇宙空間では、人間の間で既知となっている物質はたった4.9%とされている。残りはダークマターであるとか、ダークエネルギーとか、得体のしれないものが約95%を支配している。

だとしたら、その物質なりエネルギーを利用して生活する生命体、伝達手段に利用している生命体がいないと、どうして結論付けられるのだろうか。

人間のいう賢さの指標は、あくまで人間に有利なように決められているように思えてならない。

Posted by 灯沢庵