おそらく、序文

2023年11月28日

私は今、名古屋から静岡に向かう新幹線の中でこの散文を書いている。

名古屋でとあるイベントに参加して、その帰りなのだ。

感情を一言で表すのはとても難しい。今この場でそのイベントを「素晴らしかった」という言葉に変えたところで、おそらく読者諸兄にはどのような感動、または心の機微があったかなど、共有することができないように思う。これはしかし、一般論として『人の気持ちを完全に理解するなど不可能』と言いたいわけではない。ただひとえに、私は伝える手段が乏しいのだ。

このような、私の中にある孤独は今に始まったことではない。昔から、私の発した言葉は、話し相手の困惑した顔で迎えられてきた。私の思い描いた事柄を、正確に伝えることができないのである。そうして私が伝えたい理論の意図からはずれてしまうことが多々ある。私→A→言葉→B→相手という図式にすると、Aに齟齬がある。私の思想を言葉に変換するその過程に問題があると感じる。

正直、この記事を書いている今ですら不安になる。どこか何か伝え方に問題があるのではないか、気になってしまう。自分の考えがうまく伝わらないのは、もどかしいことでもあるし、苦しいし、つらい。そして何より、何より、さみしいのだ。

私は、今変わりたいと願う。願うだけでなく、行動したい。

変わるべくは今なのだ。

唐突な話になるが、私は革命という言葉が好きだった。昔から革命を起こそうと夢想していた。しかし、私が空想していた、あるいは妄信していたのは、言葉通りの革命だった。革命は一瞬にしてすべてをひっくり返す。そういうものだと思っていた。

いつか起こるその日を待ちながら、同じように毎日を生きていた。『革命は一日にしてならず』という格言があるが、その通りだった。

小鳥のひなは、いきなり飛び立てるわけではない。蝉のような変態する生き物も、羽化したてでは飛べない。翅が固まるまではじっとしている。飛翔するには、何よりも準備が必要なのだ。

ついに私に必要なのは『慣れ』なのだと至った。もとよりアウトプットが多いほうではないのである。言葉にする回数が少ないから苦手になったのか、苦手だから言葉数が減ったのかは、今となっては問題ではないと思う。ただ、何もしないままでは変われないとは、先にも触れた。不得意を得意に変えるためには、地道な道しかない。

幸い私には、このブログがあった。絵をかいたり小説をかいたりと、いろいろ手を出してはみたものの、日々に忙殺(この言葉は便利だが、使いすぎるのはよくない)されて更新を止めていた。止めていたというより止まっていた。にっちもさっちもいかなくなってすべて放り投げてしまったのだ。目的を見失ってあいまいにしていた付けが回ってきたのだと思う。

もとはといえば、今回のようなことを考えていたからこのブログを作ったはずだった。多分、カッコつけていたのだろう。自分の気持ちをあけすけにするのが恐ろしくて、隠していた。ただもう、失敗は一度した。このサイトには、私の失敗が残る。残すつもりでいる。

今一度、このブログの目的を再定義したい。私の一番の趣味は読書のため、それを利用する。読んだ本について、私なりの解釈を記事にする。本は、小説にせよ実用書にせよ、様々な考え方が可能だ。記事の更新間隔は、日曜と水曜の週二日とする。一週間に二冊以上は読んでいるため、不可能なことではない。何より、自分の感じたことを言葉にする訓練になると思っている。

私の勧める本が、その解釈が、読者諸兄に気に入ってもらえれば幸いである。それが私の自信につながることであると、今は少しだけ感じる。

最後に、謝辞を。

読みづらく、自分勝手な散文をここまで読んでいただき、とても光栄です。ありがとうございました。

次回は水曜日。