世界三視点論の続き
皆さんこんにちは。囲炉裏屋です。
今日はノーテーマの上、ちょっと正常な思考ができない状況に置かれているので、「興味ないよ」という人には申し訳ないのですが、前回お話しした『世界三視点論』について、補足をしようかなと思います。非常に偏った思考のお話になるので、あまりうのみにはしないようお願いいたします。
さて、前回は僕自身の解釈による世界における三知つの見方とその弊害についてお話ししたと思うので、今回はこれをどう使っていくかについてお話ししたいと思います。前回の話を頭に置いていないとついていけないと思うので、できれば前回のお話を見てきてからこの次の文章を読んでいってください。
知識は使わないと『宝の持ち腐れ』です。今回は、気の持ちようについてのお話になります。
いますよね。「その技術は社会にとってどう役に立つんだ」とかいう人。僕はそういう人の気持ちもわからなくもないのですが、一方的に決めつけるやり方は気に食わないと、そう感じます。確かに役に立たないことかもしれない。けれど、それを例えば『二人称世界』のことに当てはめて考えるのはお門違いだという気がしてならないのです。
例えば、部活で一番面白い人がいたとしますよね。彼はとてもひょうきんで、内輪ネタで笑いをとる人だと思います。そんな人と、例えば、M-1で優勝した漫才コンビと比べたときに、果たしてどちらが面白いでしょうか。十中八九の人たちは、当然後者を選ぶと思います。ただ、その部活内で楽しんでいる仲間はどうでしょう。彼らはその『距離感』と『認識』をもってして、ひょうきんな彼を面白がっているのであって、どれだけ笑ったか、その面白さの感じ方というのは、そこまで差が出ないのではないかなと、そう思うのです。
僕が大事にしたいのは『距離感』と『認識』による違いです。クラスで一番かわいい子と有名なドラマの主演女優と、どちらが好きかという問いに対しても同じことだと思います。自分の感じる『価値観』と『認識』によって、人の好き・嫌いの尺度は変わっていくものだと思います。それをすべからく均一に考え、「これとこれではこっちのほうがいいから、違う方を選ぶのは愚かだ」という人の意見には、僕は賛同できません。
誰もが世界で生きています。すべての価値が均一された世界で。けれど、自分が求める尺度であったり、その感じ方まで、まったく世界共通の考え方にまで落とし込まなくてもいいんじゃないかと思います。
世間の評価ではない、『これが好き』と思える心。僕はそれを最も尊いものだと感じます。
変な話だと思う方には恐縮です。僕の言いたいことは、とりあえず今日のところはこれくらいにしたいと思います。
また次回があれば、見に来ていただければ幸いです。
それでは、また明日。
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